ドン ホセ アンドレス セプルベダ

ドン ホセ アンドレス セプルベダは1841年にメキシコ人所有のランチョ サンジュクインを獲得しました。セプルベダはその地では最も有名な馬乗りとして知られ、またカリフォルニア全体では、大量に牛を所有する最も有名な男爵の一人として知られました。
1863年から1864年の間に7回の干ばつが起こり、セプルベダはその土地を手放さざるを得なくなりました。その土地48803エーカー(1億9837万4千434平方メートル)はジェームス アーバイン一世とセプルベダの三名のパートナー達に$18000(約193万5千720円:当時と現在では$1の価値が異なります)で売れらることになりました。1エーカー(4064.8平方メートル)が37セント(約40円:当時と現在では1セントの価値が異なります)で売買された計算になります。

ジェームス アーバイン一世

ジェームス アーバイン一世は弟と共に、1846年にアイルランドから移住してきました。1848年、ジェームス アーバイン一世はサンフランシスコに渡り、金の発掘場で6年間従事、その後投資用の家を購入します。ジェームスの友人が羊飼育の事業を始める際、アーバインは50%を出資し、会社株を取得しました。後にアーバイン牧場となるその土地は三回に渡り譲渡されており、その一番目が1864年のセプルベダ所有となるランチョ サンジュクインでした。1876年までに土地は125000エーカー(5億8100万平方メートル)となり、アーバインは単独の所有者となりました。

ジェームス アーバイン二世

ジェームス アーバインの息子ジェームス アーバイン二世は、25歳の誕生日となる1892年10月16日に、牧場を相続しました。その二年後の1894年に法人化し、アーバインカンパニーを設立。ジェームス アーバイン二世はそれから牧場主体の運営から農業主体の運営へと変えていき、農業地は大きく拡大していきました。アーバイン農場はリマ豆の最大生産地となり、バレンシアオレンジの世界最大の生産地となりました。さらに農場では、チリペッパー、ウォルナッツ、アボカド、ストロベリー、そしてセロリが生産され、世界中の需要を担いました。

マイフォード アーバイン

1974年、ジェームス アーバイン二世は突然死去。アーバインカンパニーはただ一人の子供であったマイフォード プラム アーバインに相続されました。マイフォードは父の運営方針から離れ、土地を住居と商業地開発へ向けていきました。マイフォードは、その地区一体を南側に開発していく、初めての大土地所有者でした。
マイフォード アーバインのビジネス方針の一つは、サンタアナ市開発先駆者の孫でありアーバインカンパニーの副社長であるビル スパージェオンと共に動き、アメリカボーイスカウト(*)に国内三番目となるボーイスカウトグループ、「ジャンボリー」に土地を提供したことです。延べ4万5千人以上のボーイスカウト、探検家、そのリーダーがジャンボリーに参加し、その活動は1953年7月17日から23日までのウィーク活動まで継続されました。アーバイン農場は西海岸に展開されたジャンボリーボーイスカウトのみを支援していました。
その支援活動はマイフォード アーバインにとって約3000万円以上の出資となりましたが、51000人以上の青年育成に活かされたことは、マイフォードにとってその活動を支援するに十分な動機でした。そしてその活動を通して成長した青年達が、後の土地開発を支える人材として育ってきた事実も見逃せません。

*ボーイスカウト:自立心のある健全な青少年の育成を目的とした、世界的な社会運動

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