住吉地区

住吉地区情報

この地域が優れた住宅地として発展する原因となったのは、明治7年の官営鉄道の開通にともない設けられた住吉駅に起因する。その具体的な出現は、明治30年代の中頃から、大阪の富商たちが、大阪市内の居住環境の悪化にともない、郊外への転出を意識したことにはじまる。

明治33年、朝日新聞創刊者の村山龍平は、御影町郡家に数千坪の土地を取得する。明治38年には、住友銀行の初代支配人であった田辺貞吉が、住吉村反高林(たんたかばやし)に二千坪をこえる土地を取得し、住友家の総理事を務めた鈴木馬左也も明治38年御影町郡家にかなりの土地を取得している。

この動きに呼応するように阿部元太郎(のちの日本住宅株式会社社長)は、明治40年頃から住吉川に沿う観音林・反高林の土地の分譲を開始した。ただ、この地域の土地所有権は住吉村に属して基本的に土地の分譲をしていなかったので、ほとんどは、地上権の分譲ではないのかと思われる。いずれにしてもこのような動きは、この地域の住宅地化を急速に進行させるものであった。

阿部元太郎が分譲した反高林の土地の一部は、のちに東洋紡績の社長となる阿部房次郎が取得している。さらに岩井商店主・岩井勝次郎も明治38年御影町郡家兼安の土地を取得しており、大日本紡績創業者の田代重右衛門も同45年、住吉亜雨ノ神に居宅を構えることになった。

このような人々の土地取得の規模は、単位が一千坪前後を下らないものであり、各邸宅はいずれも豪壮な建築ばかりで、この地域にこれだけ密度が高く建つ例は、全国的にみても少ない。

このほか、この地域に建った邸宅としては、大阪茶臼山から移転してきた住友家本邸(住吉村反高林、大正14年)、大日本紡績社長・小寺源吾邸(住吉村牛神前、大正元年)、鐘紡社長・武藤山治邸(住吉村小坂山、大正中頃)、日本生命創業者・弘世助三郎邸(住吉村牛神、明治41年)などの和風邸宅があった。

出展:Wikipedia


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